松本 山雪(まつもと さんせつ、天正9年(1581年)? - 延宝4年11月23日(1676年12月27日) は、日本の江戸時代前期の絵師。本名は恒則。初名は庄三郎。岨巓(そてん)、心易とも号した。同時代人の狩野山雪と画名・画風が似ているため、しばしば混同されるが別人である。伊予松山藩の御用絵師で、馬の絵を得意とした。

略伝

近江(滋賀県)出身、松本姓から本貫は大津松本村の可能性が高い。家系図によると、山雪の父は黒田家家臣の松本能登長光の弟・松本彌兵衛長則で、紀州藩に仕えるも浪人し、後に藤堂高虎に仕えたがその後またも浪人したという。若き日の山雪は京都に住み、狩野山楽かその周辺で画技を磨いていたと推測される。ただ、これはあくまで画伝類の記述や画風からの推測で、これを裏付ける資料は全く見つかっていない。1635年(寛永12年)に伊予松山藩(愛媛県)主・松平定行に従って松山郊外の浮穴郡南土居村郷松本庵に移り、2人扶持を得て御用絵師となる。共に同様の扶持米を貰っているのは、大工や植木屋であることから、山雪は藩の正式な家臣というより、技能者の一員としてその都度画用を務める比較的自由な立場だったようだ。その住まいは地元で「松本屋敷」と呼ばれた。時折定行が立ち寄ったとされ、現在も居住跡が残る。 松山藩で藩主が交代しても定行に仕え続け、跡取の養子・山月共々、東野御殿の吟松庵へ出向いてお茶の相手をしたという。延宝4年(1676年)に逝去し、庵近くの万福寺境内に葬られた。

跡目は養子の松本山月が継いだ(3人扶持)。山月は現存作品が少ないが、代表作である「野馬図屏風」(香川県立ミュージアム、同名別図が金刀比羅宮にもある)や「八栗寺伽藍図」(高松市牟礼町・八栗寺蔵)山雪の画風を受け継ぎつつも独自の展開を見せた力のある絵師だった。しかし、山月の子・茂助則恒の代で絵師は廃している。松本家はその後、6代目彦右衛門正純の代に松平定則の小姓として取り立てられ、最終的に百石取りの小山奉行に出世している。

作風

現存作品数は30点以上。画風を見ると、全体の印象は京狩野に似ているが、部分的なモチーフの引用や皴法などの技術的な面では雪舟の流れを汲んだ雲谷派に近い。画題は馬(走獣)、楼閣山水、中国人物、名所絵など殆どが漢画系である。癖の強い表現が多く、技術的には決して優れているとはいえないが、珍しい画題やモチーフを取り上げ、細部描写にこだわり、一度見たら忘れがたい作品を残している。しかし、細部に耽溺するあまり、モチーフ同士の関連は希薄で、画面全体を見るとアンバランスで奇妙な作品が多い。

地元の愛媛、特に松山では山雪といえば馬の絵師として知られてきた。実際に馬の絵は多く、松山地方には明らかな贋作も少なくない。画風は楷体による痩躯の馬と、草体の2種類に大別できる。後者は同時代の狩野山雪、雲谷等益、曽我二直菴なども描いており、当時の流行だと推測できる。しかし前者の、俗に「山雪のイガイガ馬」或いは「山雪のやせ馬」と呼ばれる、肋骨が浮き出るほど痩せ、三白眼と異様に長いたてがみの馬は、他の絵師には見られない。また、馬が絵から抜けだして畑を荒らすので、馬の足元に青々とした草を描き加えて貰った、という伝承も残っている。

代表作

脚注

参考文献

図録
  • 愛媛県美術館 西田多江 長井健編集 『松山藩御用絵師松本山雪 ─桃山と江戶のはざまに─』 愛媛県美術館、2007年2月
論文
  • 矢野徹志 「伊予の画人 松本山雪研究」『国華』第1336号、2007年2月、pp.3-20
  • 長井健 「松本山雪の花鳥画について」『愛媛県美術館年報・研究紀要』第8号、2008年、pp.1-6(PDF)
  • 木村重圭 「松本山雪筆「枯木叭々鳥図屏風」―伊予松本の山雪」『聚美』Vol.26、聚美社、2018年1月24日、pp.88-98、ISBN 978-4-05-611321-1

関連項目

  • 狩野山雪

外部リンク

  • 愛媛の偉人・賢人紹介 松本山雪(PDF)
  • 『愛媛県史 芸術・文化財』各藩の絵師
  • 松本山雪使用印 5個、松本山月使用印 2個 松山市ホームページ
  • 松本山雪の墓 1基 松山市ホームページ

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