蘇弘祖 (仮名:ソ コウソ, 拼音:Sū Hóngzǔ) は、清初の官吏。遼陽出身、漢軍正紅旗人。
ホンタイジによる八衙門の改定に伴って啓心郎に選任され、南贛巡撫などを歴任した。
略歴
崇徳3年 (1638)
- 旧暦7月:前任の朱国柱、高士俊が汚職に連座し解任されたことに伴い、戸部啓心郎に薦挙。同月、八衙の更定に伴い戸部漢啓心郎に選任。
- 旧暦8月:郷試合格 (挙人)。
崇徳8年 (1643)
- 旧暦12月:半個ホントホ牛彔・章京ニルイ・ジャンギン(後の雲騎尉) 品級に叙勲。
順治1年 (1644)
- 旧暦7月:青州・登州・萊州各道の分守および戸部啓心郎から河南布政使司参政に昇任、按察使司僉事を兼任。
順治3年 (1646)
- 不詳:山東布政使に転任。
順治5年 (1648)
- 旧暦9月:山東右布政使から陝西(布政使司)左布政使に昇任。
順治9年 (1652)
- 不詳:三度の恩賞により三等軽車都尉に昇格。
順治10年 (1653)
- 旧暦5月:巡按御史・高爾位により計典 (大計之典の略。明清において三年に一度実施された官吏の査定) に虚偽報告が発覚し、それに連座する形で陝西布政使を解任。
順治11年 (1654)
- 旧暦1月:福建(布政使司)福寧道参政に補欠就任。
順治13年 (1656)
- 旧暦12月:福建福寧道参政から都察院左僉都御史に昇任。
順治15年 (1658)
- 旧暦6月:都察院左僉都御史から右副都御史に昇任。贛州・南安、汀州、韶州・恵州、潮州・郴州、桂州地方の巡撫と軍務提督を兼任。
順治17年 (1660)
- 旧暦2月、都察院左都御史・魏裔介により「玩寇殃民、貽誤封疆」(悪を放任し辺境守備に支障を来した) と糾弾されたが、翌3月の吏部と都察院による査定では留任を許された。その翌4月、今度は反対に魏裔介が吏科都給事中の孫光祀から「溺職負恩」(職務怠慢) と糾弾された。孫光祀によれば、蘇弘祖に対する糺弾は、魏裔介が自らについての黒い噂を猫糞しようと、蘇弘祖らに冤罪をつけて誣告し、目を逸らせようとする策略であった。魏裔介は順治帝から弁解の機会を賜り、難を切り抜けた。
- 同月、雩都 (現江西省贛州市于都県) の山賊・李玉廷が要害の地に拠って勢力を拡大させ、大規模な掠奪に出た。蘇弘祖は資金を投じて火器を製造させると、贛城から派兵させて巣窟を叩き、頭目・李玉廷を捕縛した。また賊魁・謝上逵が鄭成功および羅一鑑、徐黄毛らを糾合し、閩州、贛州に隣接する平遠 (現広東省梅州市平遠県) の五指石不詳に勢力を張った為、同年6月、閩粤から共同出兵させて謝上逵を追い詰めた。しかし謝上逵が投降を装って紅畬不詳に逃げ込んだ為、将軍・李宗韜を派遣して羅一鑑、徐黄毛ら七人を斬伐。更に闇夜に紛れて兵を進め、遁走する賊徒を柑子窩不詳、中木溪不詳まで追い詰めて一網打尽にし、五指石寨を陥落させた。続いて紅畬に進攻し、駆け引きにより謝上逵の身柄を引き渡させて誅殺した。
順治18年 (1661)
- 旧暦5月、遊擊・王把什を派遣して広昌の賊を襲撃させた。雨に乗じてその隙を突き、滴水不詳、羊石不詳の二寨を立て続けに陥落させると、千餘の首級を挙げ、賊魁・幸運昇、蕭來信を捕縛した。順治帝の北京入城以来、ようやく地方も平定されたが、学舎が甚大な被害を受け倒壊していた為、修復のための資金投与を唱導した。
康熙元年 (1662)
- 旧暦2月:査定の結果、退官を命じられた。
康熙3年 (1664)
- 旧暦4月:死歿。同年旧暦7月、祭葬。
脚註
註釈
典拠
典拠
史書
- 馬佳・図海, 他『太宗文皇帝實錄』順治6年 (1649) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 巴泰, 他『世祖章皇帝實錄』康熙11年 (1672) 上梓, 1937年刊行 (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 李桓『國朝耆獻類徵初編』同治年間 *中央研究院臺灣史研究所版
- 『清耆獻類徵選編』臺灣銀行經濟研究室, 1967 *中央研究院臺灣史研究所版
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 民国17年(1928) (漢) *中華書局版
Web
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
- 「人名權威 人物傳記資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
- 「臺灣文獻叢刊資料庫系統」中央研究院臺灣史研究所 (台湾)
関聯
- 啓心郎


